Essay

酒瓶は僕の名前を呼ばない

僕は「推し活」という言葉が嫌いだ。好きな作品を買う。舞台を観る。配信に対価を払う。それ自体は、作ったものと金を交換する普通の商売である。だが、人間そのものへの思い入れが深まり、その深さに応じて金が動くようになると、話が変わる。

よく「健全に楽しめている人もいる」と言われる。それはもちろんそうだ。ただ、百人のうち九十九人が予算を守っていても、残りの一人が生活を削るほど払うことで売上が伸びる仕組みなら、問題をその一人の自制心だけに預けるのも、違うと思う。

人間は複製できない。時間も視線も返事も有限である。一人の人間を多数の客へ届けようとすると、売り物になりやすいのは結局、「その人にどれだけ近いか」という順位である。多く払えば名前を呼ばれる。長く話してもらえる。目立つ場所に表示される。他の客より少しだけ特別に扱われる。支払い額と親密さのようなものが連動し、それが周囲から見えるようになれば、客同士は放っておいても競争を始める。


かつてのアイドル商法にも、大量購入によって順位や結果へ影響を与えさせる仕組みがあった。もちろん、握手や会話そのものを売る仕組みもあった。それでも今の投げ銭は、当人から返ってくる反応まで、その場で見比べられるようにした。僕には、これがちょっと厄介に見える。

「スーパーチャット」と呼ぶと、便利なコメント機能のように聞こえる。けれど僕には、有限な注意をみんなで取り合う仕組みにも見える。金額は色や表示時間になって現れ、反応の差も見える。完成した作品への代金だけでなく、「自分はこの人に認識されている」という感覚にも値段が付く。便利な機能というより、公開のお布施箱に近い。

組織があるかどうかも、あまり関係がない。個人配信なら中間業者がいないから素朴な商売になる、ということでもない。演者本人が直接、「助かった」「君のおかげだ」と返せるぶん、買い物が人間関係のように感じられやすい。客は客ではなく、支援者、古参、恩人のような気分になる。その気分に価格表が付いている。

創作者が活動を続けるには金が要る。当然である。だから問題は、対価を受け取ることではない。作品、時間、技術、サービスに値段を付けることと、人との近さに値段を付けることは、分けて考えたい。前者は普通の商売である。後者は、完全に満足したら終わってしまうので、少し満たされないくらいのほうが商売として続きやすい。


スポーツ観戦も、それなりに不健全である。帰属意識は過熱するし、ファン同士が勝手に古参歴や遠征回数を競うこともある。ただし、普通の客が金を十倍払っても、その場で得点は増えない。高い席は買えても、好きなチームを勝たせる公式の課金経路は用意されていない。少なくとも、客の課金は競技の結果へ直接つながっていない。

酒はもっと単純である。もちろん体を壊すし、判断力も鈍らせる。立派なものではない。それでも酒瓶は、もっと飲めば僕を特別扱いするとは言わない。他の客より多く飲まなければ、僕との関係を切るとも言わない。払った金に対して液体が返ってくるだけである。悪さがずいぶん正直だ。

スマートフォンとSNSが広がり、人間関係は画面の中へ常駐するようになった。そこへ配信と投げ銭と決済がつながり、感情が動いた瞬間に支払えるようになった。欲望、比較、決済、反応が、一つの画面で完結する。人への思い入れが、その場で金額へ変わるようになった。

全員が破滅するわけではない。そんなことは当たり前である。ただ、誰かがつい予算を越えることでも回ってしまい、それを「愛」「応援」「支援」という善良そうな言葉で包めてしまう仕組みを、僕はあまり健全とは呼びたくない。

作品を売るなら作品を売ればよい。人間そのものと、その人への近さまで一緒に売るのは、勘弁してほしい。酒なんてまだ可愛いものである。まあ、これをevil寄りと呼んでも、僕は許されると思う。