Essay

その他愉快な奴隷たちの国から

ネットを触りながら生成AIで遊んでいると、この世界は三層くらいでできているように見えてくる。頂点にエンジニア様。その下に、エンジニアではないけれど、かろうじて上流工程にいる人々。残りは、その他愉快な奴隷たちである。

もちろん、たいていの大げさな分類と同じで、半分くらいは適当だ。XやGitHubを眺めていればエンジニアが世界の支配者に見えるが、役所に行けば紙が人を支配しているし、会社に行けば会議が人を支配している。世の中にはいろいろな主人がいる。

そもそも、エンジニア様の地位を支えているものも、もう実装だけではない。実装は生成AIが最初に飲み込んだ領域である。残っているのは、差分を読めること、テストを回せること、どこで壊れそうか分かること、そして出てきたものを信用せずに済むことである。

だから第一層も、すでに少し割れている。言われたものを作るだけの人は下へ滑りやすく、残るのは作れる人というより、作らせて検収できる人になる。「様」に見えているものの半分は、崩れかけた段に立ったままの残像かもしれない。


生成AIが広がると、みんな発注者になる、とよく言われる。たしかに、以前なら頼めなかったものまで、文章を入力するだけで作らせられるようになった。

ただ、発注というのは、頼めば終わりではない。何を作るべきかを言葉にし、出来上がったものが目的に合っているかを見て、違えば戻す。そこまで含めて発注である。

何を頼んだのか自分で分かっていなければ、出来上がったものを前にして、なんとなくすごいですね、と言うしかなくなる。そうなると発注者というより、機械の前で感心している観客である。

逆に、コードを書けなくても、目的を分解し、必要な根拠を知り、結果を検収できる人は、上流に残る。境目はエンジニアかどうかではなく、仕様と検収を自分の側に持てるかどうかに移っている。


奴隷とは、コードを書けない人のことではない。自分の仕事を他人からプロンプトとして記述され、自分ではその仕事を仕様化も検収もできない人のことである。

仕事の手順を決めるのが誰か。正しさを判定するのが誰か。間違ったときに、やり直しを命じられるのが誰か。そこを他人に握られると、作業が高度でも、立場は発注される側に固定される。

これは生成AIに限った話でもない。業務フローも、マニュアルも、申請書も、長い目で見れば人間に与えられたプロンプトである。主人はエンジニアとは限らない。手順を書き換えられる人が主人で、手順の中に書き込まれた人が奴隷になる。

愉快なのは奴隷たちより、古い段の上でまだ玉座のつもりでいる人々のほうかもしれない。

生成AIは、みんなを発注者にする。たぶん半分だけ正しい。プロンプト欄を渡された奴隷も、画面の前では発注者に見えるからである。