Essay
電動アシスト付き個人サイト
このサイトは、ほとんど生成AIが作っている。僕がやっているのは、置きたい文章を書くことと、出てきたものを眺めて、つまらなければ不採用にすることくらいである。
内容面はともかく、技術的な点なんて、修正作業すら雑だ。定期的にAIへファイル一式を読ませてレビューさせ、「指摘は全部受け入れるので、直せるものは全部直して、再パッケージして」と言う。出てきたzipをホスティングへ投げれば終わりである。何が良くなったのかは、正直よく分かっていない。見た目は変わらないが、なんか内部的にはキレイになっているんだろうな、と思って終わる。
昔なら、こうはいかなかった。HTMLを覚え、崩れたレイアウトと格闘し、更新が億劫になり、放置する。個人サイトが廃れた理由の大半は、思想ではなく摩擦だったのだと思う。SNSはその摩擦を肩代わりしてくれたが、代わりに器の形と、流れていく速さまで持っていった。
生成AIは、摩擦だけを取り除いて、器を返してくる。
電動アシスト自転車に似ている。モーターは、代わりに漕いではくれない。漕ぎ出しの一番重いところと、坂だけを軽くする。行き先を決めるのも、ペダルを回すのも、乗っている人間のままである。ただ、坂の手前で引き返していた人が、坂の向こうまで行けるようになる。
だから僕は、個人サイトはある程度再興すると思っている。
もちろん、誰でも作れるようになれば、量は増える。中身の薄いものも、SEO用の合成サイトのようなものも増えるだろう。それでいいと思っている。
誰だって、自分についてなら私小説の一本くらいは書ける。見たい人は見る。興味がなければ見ない。無ければ、その選択肢もない。
個人サイトは、行かなければ存在しないのと同じだ。読まれない一万本が増えても、それだけで誰かの負担になるわけではない。そして、その中の一本を読みたかった一人にとっては、選択肢がゼロから一になる。増える分には、誰も損をしない。流れてきたものを浴びるしかないタイムラインとは、そこが違う。
残る問題は、見つけることだろう。ただ、昔の個人サイトも、検索だけで見つけるものではなかった。リンク集があり、相互リンクがあり、誰かの「ここが面白い」を辿って着いた。作る摩擦が消えたあとに希少になるのは、書くものを持つ人と、良い紹介者だ。どちらも、変わらず人間の仕事である。
僕のサイトは、陳列棚を名乗っている。棚は客を呼ばない。通りかかった人が、勝手に眺めていくだけである。それでも、電動アシストのおかげで、棚を増やすのも、並べ替えるのも、ずいぶん軽くなった。
坂の向こうに、また個人サイトが並ぶ景色を、わりと本気で楽しみにしている。
漕ぐのは、相変わらずこちらの仕事だが。