Essay

ネット上の超人

朝五時に起きて、英語ができて、筋トレをして、子どもに優しく、仕事が速く、投資もうまく、休日には美術館へ行く人が、タイムラインには普通にいる。

正確には、それぞれ別の人である。朝五時に起きる人と、英語ができる人と、投資がうまい人は、たぶん同じ家には住んでいない。

それでも、同じ大きさの四角形に入り、同じフォントで話し、同じタイムラインを流れてくると、一人にまとまってしまう。「ネットで見た」と単数形で言った時点で、だいたい統合は終わっている。


ネット上の超人は、各分野の最大値を一つの人格に束ねた合成人間である。大勢の中から、仕事の速い瞬間、整った部屋、うまくいった投資、賢い発言だけが選ばれて流れてくる。凡庸な午後や、失敗した途中経過は、あまり流通しない。

一つの分野で右端にいる人は実在する。別の分野で右端にいる人も実在する。ただ、それを重ねるほど、全部を同時に満たす一人の人間は薄くなる。最後に残るのは、実在する何十人かの部品で作られた、実在しない一人である。

こちらは一人分なので、たいてい負ける。自分については、得意なことだけでなく、眠い朝も、未完成の仕事も、言わなければよかった一言も知っている。相手について見えるのは、各人の最良の一面の、さらに照明が当たった瞬間だけである。

相手は何十人かの寄せ集めなのに、こちらだけが一人分の履歴書で出場している。比較としては、最初から少し変である。


分業された社会も、この錯覚を手伝う。配線が上手いから電気工を呼び、医学が上手いから医者に会い、法律に詳しいから専門家へ相談する。人はたいてい、相手が自分より優れている次元で、その相手に出会う。

それは比較優位が働いているだけで、人格全体の順位を示してはいない。しかし毎日の体験としては、世間が自分より優秀な人間だけでできているように見える。

小さな集団なら、一番の狩人が網を直すのは下手だということも同時に見えた。ネットでは、一番だった瞬間だけが別々の場所から届く。人間の比較器には、標本数が増えすぎたときの補正機能が、あまり丁寧には付いていないらしい。


実在する人間の能力は、たいてい凸凹している。どこかが高くても、別のところは低い。全方向になめらかに最大化された人間のほうが、むしろ偽物の形をしている。

ネット上の超人は、誰でもない。

誰でもないので、休まない。